本当に無神論者なのか『スピノザ エチカ抄 』

スピノザは無神論者として知られているけど、果たしてそうなのか。
本書はユークリッド幾何学を用いて神について、
または人間の精神、感情、つまりエチカ(倫理学)について話を展開しています。
同時に論理学であり、数学にも見えました。

詳細は不明だけど、スピノザは「恐るべき異端」として、ユダヤ教を波紋されています。
また、暗殺されかけてもいて、当時としてはかなりの異端児だったのでしょう。

しかし、スピノザは神は存在しないとは言ってないし、
むしろ物や自然現象など、身の回りの事象全てに神が宿っていると説いているようです。

各部の最初に定義、公理を定め、その後命題、論証を展開させる形式で構成されていますが、この最初の定義が正しいかは不明で、人によって定義のつけ方は様々な気がします。

宇宙論では人間原理という思想があり、
この世界の物理定数が少しでも違えば、人間のような知的生命体は生まれないと言われています。
絶妙なバランスで成り立っているこの世界を誰が作ったのか。
神という存在がいるという考えがあっても無理ないと思いました。

僕自身も基本的には無神論者だけど、悪い事をすれば罰が当たるのではないかと、
例え誰に見られてなくても罪悪感を感じるのは、何処かで神様(もしくは仏様)が見ているかもしれないからだと思います。
という事は、自分も神の存在を認めなくてはならなくなるなと思いました。

本書では第3部と第4部の一部が省略され、感情の定義についても省かれていましたが、スピノザの考える倫理の展開は現在でも通ずる新鮮さがありました。
僕の気になったフレーズをいくつか。

どうして神はすべての人間を理性の導きだけによって支配されるように造らなかったのかと尋ねる者に対しては、わたしは次のように答えるだけで、ほかに答えはない。それは、神には、言うまでもなく完全さの最高の度合いから最低の度合いまで、あらゆるものを創造するために材料の不足がなかったからということ。あるいはいっそう適切な語りかたをするなら、神の自然の性の法則は、或る無限な知性によって念われうるいっさいを産み出すのに足りるまでに広かったからということ。
第一部 付録

以後わたしが喜びということで解るのは、精神がいっそう大きな完全さへ移る受動とする。対するに悲しみのほうは、精神がいっそう小さな完全さへ移る受動となる。加えて、精神と体とに同時に関係づけられた喜びの感情を快さあるいは陽気と呼び、そうした悲しみの感情のほうは苦痛あるいは憂鬱と呼ぶ。
第三部 命題11の備考

至福とは器量を積んで償われる報いではなく、器量そのものである。またわれわれは本能の慾望を抑えるから至福を享受するのではなく、反対に至福を享受するがゆえに本能の慾望を抑えられるのである。
第五部 命題42

予想どおり難しく、理解できない箇所も多々ありました。
見当違いな解釈をしていると思いますが、正しい内容は専門家や哲学に詳しい方々にお任せして、自分なりの勝手な解釈をして読みました。